vol.24 日墨友好400年特別企画: すべてはここから始まった。日本とメキシコ、最初のセッテン

vol24_1.jpg日本メキシコ学院の生徒が訪問! 千葉県御宿町レポート
メキシコ記念塔
メキシコ記念塔は、1609年9月30日夜半、フィリピンからメキシコのアカプルコ港に帰還途中、御宿町岩和田の田尻海岸沖で座礁したヌエバ・エスパーニャ(当時のスペイン領メキシコ)の帆船サン・フランシスコ号の遭難者救出(生存者:317人、死亡者:56人)を記念して建てられた。地元では、遭難に気づいた海女たちが海から救い出し、自分たちの体で彼らを温めたという言い伝えが残っている。当時の日本は鎖国をしていたので、この救出劇については、今からわずか80年前になって、ようやく世に知られることとなった。地元民の働きかけを受けた日本政府は、スペイン、メキシコ両政府とともに、遭難者たちの上陸地近くの丘の上に慰霊碑を建立することを決めた。
1928年に完成したこの慰霊碑は、高さ約20メートル。徳川公爵、スペイン国王、メキシコ大統領のメッセージが刻まれた青銅のプレートが、それぞれ塔基部中央、左、右に埋め込まれている。本来は全面に白い大理石が張られていたが、第二次世界大戦中、敵船の目を引かないように黒く塗られた。しかしながら、その効果なく米空軍の銃撃で破壊され、1958年、セメント製の慰霊碑が再建された。メキシコ、スペイン、日本政府は、1年以内に、大理石を使ったオリジナルの慰霊碑を、メキシコ記念公園内の同じ場所に復元することを計画しているそうだ。

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ドン・ロドリゴ一行上陸地
この浜辺が、座礁したサン・フランシスコ号の乗組員救出の舞台となった。日本メキシコ学院一行の案内役を担った御宿町役場の田辺さんのお話では、浜辺の様子は400年前とほとんど変わらないそうだ。本スポットをレポートしてくれた生徒ふたりにとって、自分たちの国メキシコと日本との姉妹関係の起源について知ることができた、とても興味深い訪問となった模様。御宿の浜辺はとても素敵な場所なので、日本に旅行される方は是非訪れてみてほしい、とのこと。

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大多喜城
この城では現在、武士たちが使用していた鎧兜や刀が展示公開されている。兜のデザインはそれぞれ異なり、いずれも何らかの動物の特徴を模した金属製の飾りが付いているが、これは、ある武士が藩のために重要任務を遂行する際、その飾りによって身元が判別できるようにするためだった。
当時、御宿は大多喜藩の領地で、城には当主の本多忠朝が住んでいた。400年前にサン・フランシスコ号が難破した時、日本は鎖国中につき外国人との交流が禁止されていたが、本多忠朝は救出されたメキシコ人とスペイン人を藩内の家々や寺にかくまった。また、サン・フランシスコ号一行の長だったロドリゴ・デ・ビベロ*と城内で会っていた。

*後に日本見聞記を綴った ロドリゴ・デ・ビベロ
ロドリゴ・デ・ビベロは、フィリピン諸島臨時総督の任務を終え、ヌエバ・エスパーニャ(当時のスペイン領メキシコ)に戻るところだった。サン・フランシスコ号遭難後、乗組員のひとりだった日本人キリシタンを通訳に立て、村人に自分たちの身分を伝えて救助を訴えた。大多喜藩主・本多忠朝を介して、江戸で徳川二代将軍秀忠との謁見にこぎつけ、駿府城で徳川家康の歓待も受けた。遭難から約1年後の1610年8月、家康から与えられた船(三浦按針こと英国人ウイリアム・アダムスが作った2隻のうちの1隻)で、一行は京都の商人ら23名の日本人とともにメキシコ(アカプルコ港)に帰国。彼が後年綴った日本滞在記は、1929年に『ドン・ロドリゴ日本見聞記』として初めて邦訳され、雄松堂より出版されている。

☆御宿基本情報☆
● 所在地:千葉県夷隅郡(房総半島中央部東端)
● 面積:24.92 K㎡
● 人口:8,020人(2008年5月1日時点)
● 観光:メキシコ記念塔のほか、童謡『月の砂漠』発祥の地でもあり、月の砂漠記念館がある。海岸に砂浜が広がり、海水浴場も多い。
● 姉妹都市:メキシコ・アカプルコ市
1975年、御宿町長がアカプルコ市長に宛てて、サン・フランシスコ号の遭難に始まる交流について記したメッセージを送ったことがきっかけとなり、1978年、アカプルコにおいて姉妹都市協定を締結。同年、時のロペス・ポルティーヨ大統領が御宿町を訪れた。