Vol.9 日墨協会創立50周年特集

1956年7月に社団法人登録された日墨協会が、今年で半世紀を迎える。これを記念して、隔年開催の「メキシコ日系人大会」(今回で8回目。前回はバハ・カリフォルニアのエンセナダにて開催)が日墨協会の本館(日墨会館)をメイン会場に、7月27日(木)~30日(日)まで開かれる。 
日墨会館は1959年に完成。日本から料理人を呼び寄せて館内1階にオープンした初の日本食レストランは、庭園の緑豊かな眺めと共に、日本の味を提供し続けている。来年はメキシコ日系人移住110周年にあたるが、1987年の移住90周年を記念して、敷地内に文化会館と茶室が加わった。かねてから、日本人にとっての心の拠り所、日本とメキシコの文化交流拠点を作りたいと願っていた日系コミュニティの人々が、日墨会館の建設に立ち上がったのは、メキシコ政府からの返還金がきっかけだった。

1941年12月7日、日本帝国海軍がハワイ真珠湾を奇襲後、米国に対して宣戦布告を行った。隣国アメリカ合衆国への連帯を表明したメキシコ政府は、敵性国となった日本公使館の資金凍結を行い、国交を断絶した。1952年4月2日、日系コミュニティ悲願の国交回復。在日公館長臨時代理として東京に派遣され、大使館の開設準備にあたったのは当時外務省の2等書記官だったノーベル文学賞作家オクタビオ・パス氏だった。
日墨協会は、松本三四郎さんが所有していたラス・アギラス地区の2万平方メートル近い農地を譲り受け、先の返還金に加え、有志からの寄付金を投入して建設に着手。日墨協会前の通りは、メキシコ人地元有力者の粋な計らいで、「フジヤマ通り」に名称変更された。
本年4月、「第4回世界水フォーラム」開会式出席のため、3度目のメキシコ訪問を行った皇太子殿下は、日墨協会に足を運び、敷地内の日系人慰霊碑に献花された後、本館での歓迎会に臨まれたが、このように日本からの要人来墨の際は、日墨会館で歓迎親睦会が開かれる慣わしとなっている。
余談だが、第二次世界大戦勃発当時、メヒカリ(バハ・カリフォルニア州)やアカコヤグア(チアパス州)周辺に数多く居住していた日本人は、メキシコ政府より、首都メキシコシティもしくはグアダラハラへの集結を命ぜられた。アカコヤグアで農園経営のかたわら、教育活動と植物研究に従事していた植物学者松田英二氏は、終戦後、UNAM(メキシコ国立自治大学)に新設された生物学部教授として活躍したが、かつての住まいに戻ることなく、当地で新たな生活を切り開いた人は少なくない。

■日墨協会の再生プロジェクト始動!

エクトル河上会長率いる日墨協会執行部は、協会の存続と繁栄のためには、財政の健全化と施設・サービスの充実化が急務として、主力の日本語教室をはじめとするカルチャーセンター運営に力を入れることを決意。約475万ペソの予算を費やし、テニスコート奥の敷地に日墨文化センターを建設。成田右文在メキシコ大使同席のもと、7月27日にテープカットを予定している。
総面積約600平方メートル(最大収容数240名)。間仕切りを使って、10室まで分割が可能だ。日本製アニメ人気の追い風もあり、日本語教室(年間3コース開講中)は、メキシコ人学習者が年々増加。現在202名が学んでいるが、スペース不足等で新規受講者の受付を見送っている状況。新施設の誕生で、生徒数の拡大が期待されている。また、水泳、生け花、気功、武道などの既存クラスに加え、今後は盆栽、陶芸、茶道、書道、日本料理、ダンス、碁など、日本ならではの多種多様な教室を順次開講していく方針。もっか法人・個人に対し、本プロジェクトへの幅広い寄付・寄贈を募っており、協力者への感謝表明として、プレートにその名を刻んで後世に残すことにしている。
世代を重ねるごとに会員離れが進む日墨協会。創立50周年の節目は、その存在意義をゆっくり見つめ直し、新たな方向性を決める絶好の機会だ。先代が築き上げてくれた貴重な財産を最大限輝かせるべく、目指すは「KIMOCHI」の詰まった魅力ある協会づくり。「YARINAOSHI」運動の命運を握るのは、日系社会ひとりひとりの愛着心、熱意そして連携プレーにほかならない。

■日墨会館の壁に残されたある日本人画家の足跡

日墨会館の階段の壁に舞う「風神・雷神像」(写真左)は、青森出身の画家・阿部合成氏(1910~1972)の作品。作家・太宰治の親友だった同氏は、1960年代前半に2度メキシコを訪問。市場の物売りや祭りの情景、闘牛士など、メキシコをテーマにした作品を数多く生み出し、当地で2度の個展を開催した。最初の滞在では、関係者たちの好意で日墨協会の一室を提供され、寝泊まりしながら制作に打ち込んだそうだ。

■日本人が初めて入植したアカコヤグアを訪ねて

人口増加対策として、榎本武揚が派遣した殖民団は、1897年5月10日、チアパス州のサン・ベニート港(現チアパス港)に上陸(監督1名以外は20代の青年。1名病死し計35名到着)。約25km離れたタパチュラで数日過ごした後、殖民協会が事前調査を経てメキシコ政府から購入していたソコヌスコ地域エスクイントラ村(アカコヤグア)の入殖地まで、さらに約100km歩き抜いた(同月19日到着)。猛暑、経験不足、資金難などの悪条件が重なり、コーヒー農園での成功を夢見た殖民地構想は3ヶ月で実質崩壊するも、かの地に残って奮闘し続けた数名が、地域に溶け込みながら農園以外にも事業を拡大。アカコヤグアの役場前公園には、移住70周年を記念して建立された榎本殖民記念碑がそびえ、その横には同地で教育と植物研究に情熱を注いだ植物学者松田英二氏の記念碑が並んでいる。

☆日系移民100周年中学校にも行ってきました!☆
日系移民100周年にあたる1997年、「アカコヤグア中学校」から「日系移民100周年中学校」へと名称変更。カルロス春日さん(P2)にお話を伺い、ぜひ見学を!と訪れたセッテン編集部は、朝礼を延長しての歓迎ぶりに赤面。ホセ・エドムンド・フエンテス校長と、同校で唯一日本語を勉強中という女生徒さんによる挨拶の後、マリンバの演奏にしばし聴き入り、職員室で朝食までごちそうになりました。生徒数は544名。メキシコシティへの修学旅行の話が評判を呼び、入学者は年々増加。再び教室不足に陥っているとか。徒歩1時間以上かけて、山奥や近隣の村から通う生徒も大勢います。

■チアパス第2の都市タパチュラ

州都トゥクストラ・グティエレスに次ぐチアパス第2の都市タパチュラは、コーヒー栽培で知られ、コーヒー農園見学はイサパ遺跡とともに観光の目玉。榎本殖民団は、サン・ベニート港(現チアパス港)上陸後に同地入りしたが、ドイツ、中国からの移民者が多く、彼らは地域の経済発展に大きく貢献した。街のシンボル的建造物は、アールデコ調の旧市庁舎で、1992年より文化会館として機能。その隣に18世紀建設のサン・アグスティン教会がある。向かいの広場では、風船売りや靴磨きの男性が商いに励む中、朝から夜まで誰かしらベンチでくつろいでおり、文字通り市民の憩いの場といった様相。
「チアパス榎本協会」と名づけられた日系人協会があり、中心街から少し離れた場所に日墨文化会館がある。1997年、日系移民100周年記念に同地を訪れた秋篠宮殿下ご夫妻が定礎式に出席され、通りの名前が「秋篠宮殿下通り」に変更。「AKISHINO」の名の冠した洗車場やトルティージャ屋さんがお目見えしている。